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笏谷之内揚間歩検地図

所蔵 福井市春嶽公記念文庫      
法量 九四×九四cm
年代 明治四年(一八七一)十二月。大正八年(一九一九)影写。
            ※「旧・越前笏谷石の会」のホームページ担当者様から情報提供をしていただき、旧ホームページの内容を継承して掲載しております。

 

 笏谷(しゃくだに)は足羽山の北西部、小山谷(おやまだに)と加茂河原との間に位置し、越前の名石として知られる笏谷石の産地である。笏谷石は細粒の火山砕屑物(さいせつぶつ)が固結して形成された凝灰岩の一種で、加工が容易なため古くから各種の用途に利用されてきた。足羽山の古墳からは笏谷石の石棺が出土しており、古代・中世には礎石や各種の石塔類・灯籠などに使用され、石仏も刻まれた。朝倉氏の一乗城山や柴田氏の丸岡城で笏谷石の屋根瓦が使われていたこともよく知られている。江戸時代になるとその利用範囲はさらに拡大し、「越前国名蹟考」は「郡県細志」を引いて、「壁、橋、柱、樋、火器、水道、仏像、塔、墓皆用之、其外要用不遑記」としている。
 この笏谷石を切り出す所を間歩(まぶ)あるいは石間歩といい、「片聾記」の「石間歩を賜ハりし事故ある事にや、大小身に不依、本多大蔵、酒井玄蕃、芦田下野、狛杢、笹治多門、牧野主殿、山川右膳、永見帯刀分、以上八人なり」という記事(*)から、福井藩が笏谷石の採掘権を知行の一端として八人の重臣に分与したことが知られる。この八家のうち七家は絵図にもその子孫の名が見えている。
 これらの採掘権は、明治四年七月の廃藩置県によって収公された。この絵図は、それらの位置と規模を確定するために作成された検地絵図で、藩政期に石屋大工の元締をつとめた木戸市右衛門家に伝えられていたのを大正八年に影写したものである。収公された間歩(揚間歩(あげまぶ))については、その面積と元の知行者名、周囲の詳細な長さが記入されている(なお、これらと同じように記載されている長谷川五作間歩については不詳)。収公の対象とならなかった民間の持間歩は検地の対象とされず、その位置と所有者名が記されているにすぎない。
 絵図下辺に見える青色の部分は、かつて笏谷付近まで屈曲していた足羽川であり、その右方には石を積み出すための河戸(こうど)が描かれている。

*諸本により異同があるが、本文は「越前国名蹟考」所引の文による。
出典 福井市史 資料編別巻 絵図・地図(平成元年3月20年発行)
参考データ:その他の古絵図→昔の足羽川・足羽山の様子






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