笏谷石Q&A
公開講座『ふくいの狛犬〜笏谷石の造形と歴史〜』でのご質問の回答(2012年1月14日)
(●質問○答え)
● 笏谷石は古くなると黒ずんだり、鉄分が吹き出したのか
赤サビのような色を帯びたりします。考えられる原因はなんでしょうか。
磨くととれるのでしょうか。
○ 笏谷石は、風雨にさらされたり、ホコリがついた上に水がかかったりして汚れた水が
染み込むとシミになります。
また、もともと土に埋もれていたもの(出土資料や地覆石、
基礎石など)は、
土のなかで鉄分を含んだ水を吸っているため、
いったん乾燥してきれいに
見えても後から鉄分が表面に出て来て赤錆色の汚れになることもあります。これらのように
内側から
染み出している汚れの場合、表面を磨いても取れないと考えられます。
なお、表面に汚れがついたまま水をかけると、汚れが
水といっしょに石の内部に入る
可能性があります。また、細かい彫刻やノミ痕の残る品の場合、乾いた状態から水をかけて
磨くと表面の彫りや痕跡が損なわれる(エッジがなくなる)ことがあります。
笏谷石の黒ずみは汚れです。取れる場合もありますが、磨きすぎて表面が削れたり
欠ける原因になります。
赤茶の色をしたところは石錆です。これは磨いても取れません。
黄色の部分は、菌
、又は苔と言われています。
詳しくは、後日調べます。
ちなみに、笏谷石をクレンザーで洗ったら真っ白になってしまった方がいらっしゃるので、
やめましょう。
● 「神殿狛犬」は本殿の内部に安置されたのですか?
具体的にどの場所に安置されたのですか?本像の付近なのしょうか?
○ 本殿内の場合もあり(帷帳の押さえとして神像のすぐ前)、拝殿内、拝殿と本殿を
つなぐ廊下、
本殿や拝殿の軒などの例があります。古い絵画資料などでは、
社殿の軒の両端に 阿吽を振り分けて置いてあるものが見られます。
● 墓石(昔はほとんどが笏谷石)の文字が読めなくなってしまっています。
なんとか読み取る方法は出来ませんか。
タクホンで確実に読めるのでしょうか。やり方を教えてください。
○ 拓本で読める場合もありますが、傷みや欠落が多いと読めないこともあります。
● 狛犬の石材は、笏谷石以外に何がありますか?(御影石?)
○ 出雲の来待石(きまちいし/砂岩)、丹後半島の砂岩、大阪の和泉石(いずみいし/砂岩)、
兵庫の御影石(みかげいし/花崗岩)、真鶴の小松石(こまついし/安山岩)、
氷見市の藪田石(やぶたいし/微粒砂岩?)などが挙げられます。
また、愛知県岡崎市周辺で産出する花崗岩でも数多くの狛犬が彫られています。
● 地元石材にはどのような石材があるのでしょうか?
○ 福井県内で用いられた石材は、以下のものが知られています。
(番号は画像をご覧ください。県立歴史博物館で展示されている石材サンプルです)
1.和田石(鯖江市)2.笏谷石(福井市)3.熊坂石(あわら市)
4.宮谷石(あわら市)
5.上野石(福井市)6.別畑石(福井市)
7.氷坂石(越前市)8.半田石(福井市)
9.浜住石(福井市)
10.別所石(福井市)11.戸谷石(越前市)12.河端石(鯖江市)
笏谷石以外の石材も、多くは建物の基礎石、地覆石、石殿などに用いられていました。
9の浜住石、10の別所石は「かまど」に用いられたことで知られています。
● 私は狛犬に興味があり、本日参加させてもらいましたが、ここ福井で、
狛犬について語ったり研究したりする会、集まり、サークル等ありましたら、
ぜひ教えていただきたいです。私も500〜600対ぐらいは狛犬を見てきました。
○ 申し訳ありません、存じません・・・。
● 参道狛犬については、どうなのでしょうか。(風化が激しくて残っていない?)
普段、目にするのは、参道狛犬だけなので
○ 越前では、明治時代以降、とくに日清・日露戦争から第二次世界大戦までの間に、
戦勝記念として参道狛犬の奉納がさかんになったようです。ただ、本格的には
調べられていないため、今後の課題になると思います。
全国的には、江戸時代(18世紀ごろ)に江戸・大阪で流行して広まったとされています。
● 造形の時代別変化についてお聞きしましたが、
石工さんによって作風が違ったとは考えられませんか?
○ 石工集団ごとにある程度の個性・作風の違いはあるでしょう。
ただ、銘文のあるものを追いかけると、時代ごとに造形がグルーピングできることから、
石工の個性の部分はそのグルーピングの幅のなかで見られるのではないかと考えています。
● 加工職人集団のこと。どのような座などあったのか。
○ 現在のところ分かっていません。石を掘りだす権利(間歩)や出荷する卸については、
一部に資料が残されていますが、加工(石工)については資料が見つかっていません。
● 狛犬(笏谷石)は人間の深象心理(守り犬とか)とどう関わって
作成されたのかを知りたいです。
○ 犬は古くは縄文時代から人間の身近な動物で、長く番犬、猟犬などとして人とともに
暮らしてきたことが知られています。また、多産なことから子孫繁栄のシンボルともされ、
妊婦が初めて腹帯を巻く日を「戌の日」とします。子どもを守護する存在ともされ、
犬の張子や土人形も人気でした。
こうした、犬を人(家などの領域も含めて)の守護者とする考えは、神や神域を守る
「狛犬」の成立のベースのひとつだといえます。
ただし、犬以外の動物たち(ネズミ、キツネ、サル、ヘビ、ウシ・・・)も、神の使いや眷族、
あるいは神の姿のひとつとして捉えられてきています。
● 江戸時代も経年で変化があるのですか?
○ あると考えています。ただ、現在のところ、未整理の状態です。
おおまかには、17世紀以降、狛犬の角が消え(獅子・狛犬の区別の消失)、
顔の造作がおおざっぱになっていきます。たてがみの房の数が減り、尾の房も減ります。
台の後半を丸く仕上げるようにもなります。18世紀には、胸を直線的に落とす、
前脚が斜めに前に出る、などの特徴がみられるようです。19世紀以降、たてがみが
縦ロールになったり、細かい筋が入ったりと、造形が派手かつ多様化するのでは?
と考えています。
● 県内に紀年銘の少ないかは?
○ 越前以外に「持ちだして奉納する」際には、地元のものを地元で奉納するよりも
強い思い入れがあるのではないでしょうか。わざわざ越前から持ってきた、
という意識が働いて、紀年銘を刻むと考えられます。逆に、越前国内では、
とくに小型のものの場合、そこまでの意識がないため銘文を彫らないともいえます。
もちろん、今後、調査によって県内(越前地域)でも紀年銘狛犬の例が増える
可能性はあります。
● 狛犬は神社にあるのが多いのです。私の知っているのでは
寺に狛犬がありました。まず、見つけたのが、運がよいのか、
埼玉県鴻巣市、法案寺、勝願寺でした。狛犬が神社にあるのが多く、
寺には少なく、この関係はどうなのでしょうか。
○ 明治の最初期に明治政府によって神仏分離が行われるまで、同じ境内に寺院と神社が
併置されることが多くありました。このため、神社に奉納された狛犬が(神社廃絶後も)
境内に残される可能性はあります。また、「(神様に限らず)聖域を守るために狛犬を置く」
という解釈で、寺院の境内を守るためにあえて寺院に狛犬を奉納したこともあり得ます。
● 石川県小松市、加賀市での狛犬の石質は笏谷石とよく似た石ですが、
違うとのこと。滝ヶ原石(集落名)一部丸岡城に使用しているようですが。
○ 小松市・加賀市の狛犬については、数点しか見たことがないので詳細は不明です。
石部菅生神社(旧大聖寺市)には古い越前狛犬が数点外に出されていました。
● 自分の町にも古い狛犬2体あるが時代を知りたいです。
神社の中にあったものが、今は合葉の神の前にあります。(外)
○ アイバさまの前に出されていると、風雪で傷みます・・・。
神社名を教えてください。こっそり見に行きます。
● 直接ご指導お願いしたいです。神社にある狛犬について。
インターネットがないため。
○ 個別の神社にある狛犬については、神社名をお知らせいただくか、
写真をお送っていただければ、時間を見て調べたいと思います。
● 本来の置物(座石)から、現代の神社等の守り神の
様式形態になる話を聞きたかったし、ひょっとしたら
聞きもらしたのかもしれません。
○ 「鎮子」から「守り神」化した具体的な経緯はよく分かっていません。
もともと、獅子と狛犬の像が帷帳のおもりとして一対で貴人の前に置かれた際に、
その「見た目」から「守り手」と連想されたとも、仏教の獅子像(仏を守護する)との
混淆とも言われます。狛犬が神社とセットで考えられるようになったのは、神社の建築や
シツライの様式が宮殿を模したためとされています。
● 他の石類の狛犬との違い、歴史。越前狛犬でありながら国指定なし?
○ 他の石材の狛犬と比べると、
・古くから長く作り続けられている(中世後期から近現代)
・神殿狛犬として作られ、使われている
・造形が美しい
・全国各地に移出され、奉納されている
点で、特異と考えています。
越前狛犬の国指定は1件ありますが(岐阜県神戸町日吉神社蔵)、
県内での指定は、あわら市・鯖江市に市指定が1件ずつあるのみです。
● 笏谷石は、何故柔らかいのか、何故独特の色がついているのか、
教えていただきたく思います。
○ 笏谷石のような火山礫凝灰岩は石の中で柔らかい部類に入る石とされています。
「凝灰岩は火山灰が堆積してできた岩石です。火山灰が堆積した後、熱水による
変質作用を受け、角閃石や輝石などの有色鉱物が粘土鉱物の一種である緑泥石に
変化することで、緑色を帯びます。緑に発色する主な理由は緑泥石中の鉄によります。」
(「おおだwebミュージアム」http://sanbesan.web.fc2.com/ohda_geo/greentuff.htmlより)
公開講座『笏谷石文化遺産を後世にのこすために』でのご質問の回答(2010年9月26日)
(●質問○答え)
● 火山礫凝灰岩は他県にはあるか、あった場合全国搬出された可能性はあるか
○ 火山礫凝灰岩は、火山活動によって噴出した礫の混じった火山灰が
固まってできたもので、種類も多く、広く各地に存在するようです。
近隣では笏谷石に似た色合いの石が、石川県小松市の滝ケ原町で産出しています。
私は、笏谷石以外の火山礫凝灰岩が旧くから広く全国へ移出された例はいまだ知りませんが、
以外の石で旧くから採掘されている島根県の来待石(粗粒凝灰質砂岩)、
今は採掘されていませんが福井県高浜町の日引石(安山岩質凝灰岩)などは
北から南まで広範囲に運ばれています。しかしこれらの石は採掘地以外の
地方では笏谷石のように多くは見られません。
● 笏谷石の「笏谷」はどこから出たか
○ 石の採掘地「笏谷」の地名をとったものと思います。史料によると「石谷(しゃくだに)」とか
「尺谷」と書く例も見られます。また『国事(こくじ)叢記(そうき)』の寛文8(1668)年の項に
越前の産物が羅列されていますが、この中に「笏谷石」の記述がみられます。
呼称については、最近は福井県以外でも笏谷石と呼ぶ人が多くなりましたが、地方によって
いろいろな呼びかたがあり、朝倉石、三国石、新保石、越前石、福井石、越前青石などと
呼ばれています。(地質学上は笏谷石という分類はありませんので、「笏谷石」はこれまで足羽山と周辺で採掘されて
きた石を総称した「ブランドネーム」と考えればいいのではないかと思っています)
● 県外で石造物を見て、笏谷石であることをどのようにして見分けるか
○ これまで20年余り各地で笏谷石の石造物を観てきました。この経験により、
笏谷石のもつ石自体の特徴(経年変化した時の色あい、風化のしかたなど)だけでなく、
笏谷石遺品に多い石造物の形状、荘厳方法などを併せて検討して笏谷石であるか否かを
判別しています。しかし、判別が困難な場合もあることを追記しておきます。
● 白山信仰の時代から、朝倉氏の時代石工や調師はどこに住んでいたか
○ 朝倉氏の時代以降について説明します。朝倉氏が住まいにした一乗谷には
非常に多くの笏谷石の石仏や石塔などがのこされているのはご承知の通りです。
現時点では、これらは完成品として福井から陸路および足羽川舟路を使って
一乗谷まで運ばれてきたものと考えられています。その理由は一乗谷のこれまでの
発掘遺跡のなかに石を加工したことを実証する遺跡(加工屑、瓦礫、残骸、
各種の加工工具など)が発見されていないためです。しかし一石五輪塔などの
没年月日や戒名ぐらいは一乗谷のどこかで彫刻していたのではないかと思われます。
今後の新たな発掘活動によって石の加工遺跡が発見されることを期待しています。
朝倉時代が終わった天正年間(1573-1591)頃は、北ノ庄に21〜25人の石屋がおり、
九十九橋架橋のための石材や福井城石垣用の石を切り出していたという史料が
のこされています。
近世の史料によりますと、福井の石坂町(現在の毛矢三丁目)は石屋の町で、
天明2(1782)年に28人の石屋がいました。また『三国(みくに)鑑(かがみ)』には、
元治元(1864)年三国(笏谷石の他国への沖出し港)に15軒の石屋があったことが
記述されています。
● 石は加工「越前式荘厳」されたものが移出されたのか
○ 越前式荘厳された石塔類は、越前(福井または三国)の石工によって加工されて移出され、
没年月日や戒名・法名部分の彫刻は現地の石工によったと考えています。
● 笏谷石の風化を防ぐ方法や科学的処理方法はあるか
○ 野ざらしの状態を改善して覆屋など建物内で保存にすることが好ましく、
各地で既設の建屋内または新たに覆屋を設置する保存活動が進みつつあります。
近年の例では西教寺(大津市)の阿弥陀如来と25菩薩来迎群像(脇侍を合わせて27体)は
寺院建屋内で、近郊では住吉神社(春江町高江)の板碑(2基)は覆屋を設置して
保存されるようになりました。風化があまり進展しない間にこのような対策を
実施していくことが風化防止の最善策だと考えます。
一方で、今はまだ実施情報を聞きませんが、石造物の風化を防止するための
科学的処理技術の確立も期待したいところです。
回答:笏谷石研究家 三井 紀生 氏
お忙しい中、ご来場くださいました皆様、ご回答してくださいました三井先生、
誠に、有り難うございました。